どうも、特別な五つ星たちへ

日々堂本さんと五つの星を愛でたり考察したり

ライトなファンになろうと思った


お久しぶりです。かれんです。

お久しぶりといってももうしばらく顔を出していなかったし、ブログを書くのは三度目なので、初めましてといったほうがいいのかもしれません。

初めまして、かれんです。



私は滅多にブログを書かない&読まないタイプの人間なので、こうやってブログを書こう!と思い立ったのには大きなわけがあります。今迄のKinKi Kidsファン人生の中で、一番最近が思うことが多くなったから。


ずっとKinKi Kidsファンをやってきて、といっても私はしばらくの間お茶の間ファン(簡単にいうとテレビで応援するだけのファン)をやってきたのですが、今年の2016年は本当にKinKi Kidsにとっても素晴らしいものになったように思います。ソロの活動もしながら、KinKi Kidsのアリーナツアーもあって。キラキラ輝く2人の笑顔がたまらなく幸せだった。あまりにも幸せすぎて、失うことを思ってしまうくらいには。


「あぁ!20周年イヤーってこんなにも素敵なんだ!一生20周年でいいのに!」


そんなバカなことを本気で思ったりもしました。それほどKinKi Kidsに飢えていたから。



でも、つい先日私にとっての爆弾が光一さんの口から投下されてしまいました。


光一さんが連載を持っているあの雑誌で、『KinKi Kidsも解散を考えたことがある。しかも考えただけではなくて、ジャニーさんにも話をしにいった。』

その文字を見た時、私は一気に血の気が引きました。



どのグループにも、解散を考えたことはあるでしょう。

KinKi Kidsが慕っている先輩も、今何の意思も公開されないままで、事務所の意向だけで解散を余儀なくされている状況にあるのだから、当たり前であることはわかっています。

TOKIOだってV6だって、そういう危機に直面したことがある話を聞いたことがある。そんな話を聞くたびに「大変だったね」と思う自分がいたのを覚えています。


それなのに、光一さんが、KinKi Kidsが解散を考えたことがあるといった瞬間、私の中の勝手に作り上げていたKinKi Kids像が壊れたように感じてしまったんです。


KinKi Kidsはそんな話をしたことがないと思ってた。


KinKi Kidsだけは無関係なように勝手に思っていたんです。   


 KinKi Kidsはそうではないと、一体全体誰が言ったのか。そんな確信なんてないはずなのに、私たちはただ1人のファンでしかないはずなのに。


私の中のKinKi Kidsとは何だったのか、その時に初めて気づいたような気がします。


芸能界が難しいことも、ジャニーズという世界が難しいことも、全部わかりきっていたはずなのに、自分が応援するグループのメンバーから直接その話を聞くと、わかっていたことは全て吹き飛んでしまう。今迄見てきて、信じていたお互いへの笑顔さえ色褪せてしまうような気さえして、私はしばらく毎日狂ったようにいたツイッターのアカウントからログアウトしてしまいました。


それが正しいことだったのかはわからない。

むしろ逃げてしまったような気がして、自分がわからなくなっています。



私が普段ちょくちょくしていることで、同じKinKi Kidsファンの皆さんからすると「おかしいんじゃないの?」と思われていることに一つにKinKi Kidsをよく思っていない人たちのツイートを見る、ということがあります。


何のために?そう思われても仕方ないでしょう。でも、私にとって敵である人がいる以上、その人たちに負けないようにするには相手を知ることが何よりも大切なことだと私は思っています。それでも、今回はツイートを見るのが怖かった。正直なところ怖かった。彼女たちにとっては嬉しくて仕方がない話だったろうなということがわかっていたから。


KinKi Kidsのことで、ここまで苦しくなったのは初めてで、できれば記事を何度も何度も読むことはしたくなかった。それでもどうしてこのタイミングで、先輩のこともあって、20周年幸せオーラで包まれている中で光一さんがこんな話をしているのかも意味がわからないままでいるのが悔しくて、いやでも何度も何度も読み返すようにした。


KinKi Kidsファンの意地だったように思う。

いや、はたまた私の意地か。

今迄ずっとファンをやってきた光一さんが、何の意味もなくこのタイミングでそんなことを言いだすとは思えなかったから。


何度も読み返すうちに、光一さんは過去を振り返らない人だということを思い出しました。彼にとって、解散を考えたことは過去だと。そして、『20周年を迎え、アリーナツアーをしたことでKinKi Kidsの方向性を見つけ直した』とさえ伝えてくれていることを。

初めて記事を読んだ時「解散を考えた」という言葉だけが一人歩きをしてしまって、私は何も光一さんが考えていること、何を伝えたいかを考える余裕さえなかった。ツイッターを見る限り、未だそんな人が多いように思える。斯く言う私だって、完璧にそのショックから抜け出せているわけではないから、そのうちの1人に含まれてしまうにかも知れないけれど。



Songsが放送された時のインタビューで光一さんは「僕が一番KinKi Kidsを理解している」と言った。剛さんは「2人がやればKinKi Kidsになる」とも言った。

これは本当にすごいことだと思う。でも、KinKi Kidsがそうなるには長い年月が必要で、その過程には様々な挫折や苦悩があったことは当たり前のはずなのだ。

その中で、解散という言葉が頭をよぎることがあっても仕方のないことだとも思える。


光一さんにとっては、KinKi Kids堂本光一でも堂本剛でもなく、KinKi Kidsという場所であり、立場であり、存在なのだと思う。

だからこそ「方向性が見えない」ことや「意味のない」こと、「KinKi Kidsとしてするべきことではない」ことをするくらいなら、KinKi Kidsである必要がないと考えたのだと思う。


考えて見てほしい。


それってめちゃくちゃKinKi Kidsのこと大好きじゃん光一さん!!!!!!!!!

私たちファンなんかよりよっぽどKinKi Kidsのことを考えていて愛してるじゃない!!!!



剛さんはいつも見える愛を与えてくれる

それは声だったり言葉だったり。KinKi Kidsはかけがえのないものだと。2人にとってなくてはならない、もうそんな状況さえ超えてしまった空気のようにあって当たり前の場所なのだと。だから「2人がやればKinKi Kidsになる」とこの前言ったのだろう。そう、2人がやればKinKi Kidsなんだよ。でも、それは2人じゃなければ成り立たなくて、それも堂本剛堂本光一じゃなきゃダメで。



KinKi Kidsってなんだろう。

もう一回自分に問い直して見る。


なくてはならないかけがえのないものだけれど、あまりにのめり込みすぎてしまうときっと本質が見えなくなってしまうものなのかも知れない。もちろんそれは私だけかも知れないけれど、ちゃんとKinKi Kidsの姿が観れていない人がたくさんいるのも事実だから。


私はKinKi Kidsが大好きだ。

それは揺るぎない事実だし、きっとこのままいけば死ぬまでKinKi Kidsが好きなんだと思う。声も顔も性格も2人を取り巻く運命も全部全部大好きだから。


でも、そんな2人を好きでいるためにも、もっとライトなファンになろうと思う。

ちゃんと彼らが何を伝えたいのか、一歩引いて第三者として見ることができるくらいのファンであることも大切だと今回気付かされたから。


解散というたった二文字なのに、ひどく心を惑わされてしまった自分が恥ずかしい。

光一さんが伝えたかったのはその先だったのだ。きっとそれは剛さんもわかっていて、光一さんが不安を抱いていたあの頃、きっと剛さんは「大丈夫だ」と昔剛さんがKinKi Kidsに不安を抱えていた頃に光一さんが支えてくれていた様に、今度は光一さんを支えていてくれたのだと思う。

それがKinKi Kidsだから。不安だと思う場面が正反対なのも、あの2人の魅力であり、強みだから。



こんな時だからこそ、剛さんが元日に言った

「純粋にKinKi Kidsを愛してください」

を思い出す。


そう、ファンとしてしなければならならないのは、KinKi Kidsを純粋に愛すること。もうすぐあれから一年。


またKinKi Kidsの冬がやってくるのだから。








違う剛くんを見てきたよ

お久しぶりです、果鈴です。

まだまだKinKi Kids事が決まっていない今日この頃ですが、今日以前からV6担の友人と約束していた森田剛くん主演の「ヒメアノール」を観てきました。


その感想を書こうと思います。


※よってこのブログはネタバレを含みます

※これから見に行く方はここでUターンをお願いいたします

※記憶力がないのでセリフは曖昧です。また一部分を特出して感想を書いているので、全体についてはご自身の目でお確かめください。






ヒメアノールの見る前から、この映画はグロいことは聞いていました。先行試写会で退場者が出るくらいですから、よっぽどのことだろうと友人と覚悟を決めて見に行きました。ところが、どちらかというと性的な方でR15がかかっているような雰囲気(笑)



濱田岳くん演じる岡田のセックスシーンもさることながら、森田剛くん演じる森田のソロプレイ(オナニーですね)の回数たるや…想像以上でした。ジャニオタの自分としては、剛くんがこんな演技をしててもいいものかと違った意味でハラハラしましたが、どうやらもう20周年を迎えた彼は事務所的にOKが出ているらしいですね。いやぁ、すごい!(笑)



映画の中で、森田は何人もの人を殺し「性欲」「睡眠欲」「食欲」の三大欲求を満たすためだけのためにも人を殺すほど残虐かつ無慈悲な人間として描かれていました。

ただ、この映画においてその森田という人間像は最後の2分で打ち砕かれます。いい意味でも、悪い意味でも。




※もう一回言いますが、ここからはラストシーンのネタバレです。ラストシーンを楽しみにしている方は、読むのをお控えください。



ラストシーン。

森田は岡田を人質にして、車で警察から逃走を図ります。岡田も森田も二階の窓から飛び降りただけに体はボロボロ。

そんな岡田が、運転する森田に言うのです。

「もうやめようよぉ、森田くんそんな人じゃなかったでしょ、本当は優しい人でしょ」

ところが、その言葉に森田はキレて、持っていた包丁で岡田の膝を刺します。一見すると森田はただ岡田が口を聞いたことにキレたようにも感じますが、これはきっとそうじゃないんですよね。

森田は自分が狂っていたことに気づいているのです。(その描写はかすかに映画に描かれています。)そして、自分の中にまだいじめられる前の岡田と高校時代に親友であったあの頃の自分がいることにも。

ただ、もう自己肯定をすることでしか森田は生き抜く術を得ていなかったのですから、岡田のその言葉を飲むことができなかったのです。



ところが、その逃走劇はすぐに終わりを迎えます。森田が岡田に気を取られ、車道を見るとそこには白い犬と飼い主の姿が…。

何を思ったか、森田はハンドルを急旋回し車を電柱に衝突させます。しかしいつもなら無慈悲に無関係な人を殺す森田がなぜ、その犬と飼い主は引き殺さなかったのか…。それは、ラストのラストで判明するのですが、ここから森田の様子が変わっていくのです。



車が衝突した衝撃で、目を閉じていた岡田が目をそっと開けると、森田が言うのです。

「あれぇ、岡田くん来てたんだ。ちょっと待ってね、借りてたゲーム返さなきゃ…あれ、ないなぁ…。お母さーん!麦茶二つ持ってきて…!」

このシーンで私の涙腺は完全に崩壊しました。この瞬間に殺人鬼である森田の姿はどこにもいなくなっていたのですね。高校一年生の、岡田と親友であったあの時代の森田が帰ってきたということです。



森田は高校一年生のまま話すのですが、警察がすぐに森田を捕まえて車から引きずり下ろします。森田の右足はぐちゃぐちゃで(この描写はこのラストシーンにあまり向いてなかったかもしれない。)1人で立っていることすら難しい状態でしたが、そんなことも気に留めず森田は笑って「いつでもまた来てね。」と岡田に告げます。岡田も全てを悟って「うん…」と静かに頷いてゆっくり目を閉じてこのシーンが終わるのです。



先ほど述べましたが、ここで森田という人間像は完全に崩壊しました。いや、元に戻ったといてもいいのかもしれませんが、私の中では崩壊ともとれるな、と。

かつての優しさを得ることは、ハッピーエンドのようにも見えますがどうも森田にとってはバッドエンドのようにも見えてしまう…。


殺人鬼である森田は、自分は人を殺しているのだから死刑になることは妥当であり、岡田を殺した後にはもう全てを終わらせるような覚悟を持っていました。(事実岡田を殺したら終わりにするという発言あり)しかし、どうやら高校一年生の森田は自分が人を殺していたという認識がない、高校一年生というまだ弱い立場の弱い心のまま、子供の心のままのようにみえる、つまりこのまま死刑になったとしても、自分がどうして死ななければならないのか、罪さえわからないまま死にゆくことになるのです…。



それを思うとゾッとしました。

少年森田は、何一つ悪くなかった。むしろ幸せなことなんて生きているうちに一度もなかったのではないか…そう思わせるのです。



ところが、逃走劇のシーンが終わった後に岡田と森田が通っていたとみられる高校を背景に、2人が初めて出会った時の会話が音声で流れます。


「ねぇ、おかだ…くんだよね」


「うん」


「おかだくんどこ中出身…?」


「○○だよ。森田くんは?」


「○○中。ねぇ、もう誰かと話したりした?」


「ううん。森田くんは?」


「僕も初めて。」



高校一年生の初めてのシーン。

友人ができるかわからなかったあの頃の不安定さと、楽しそうな声。

この会話で私はさらに涙が止まらなくなりました。


シーンがさらに変わって、森田の家で制服姿でレースゲームをする岡田と森田の後ろ姿が移ります。楽しそうにゲームではしゃいで、親友らしく2人で笑いあっている姿。

庭には、白い犬が繋がれて飼われています。

(正直この伏線はずるかった。ここでも森田がどうして最後に殺人鬼から少年の心に戻ったのかがよく表されていて、ストーリーの組み方に感服)

そして最後森田が楽しそうな笑顔で言うのです。



「おかあさーん!麦茶持ってきて!」



この最後の2分間だけでも、私はこの映画を見た価値が十分にあったと痛感しました。

伏線による伏線。

そして、最後に垣間見えた森田の本当の姿。


この学生時代の岡田と楽しそうにゲームをして笑いあっている期間だけが、森田が味わった最後の幸せなのだと思うと、なんともやるせない、だけれどもそこには惹かれてしまう何かが確かに存在していた…。



私が考えるに、岡田も森田も2人ともきっともう助からないような終わり方をしているので、この最後のシーンは、天国とは言わなくても、やっと2人のあるべき友情の姿に戻った暗示のようにも感じられました。だとしたらいいな、だとしたら、森田は少しでも救われた気がします。



口の悪いことを言ってしまうと、何を伝えたかったのか、そのメッセージはよくわかりませんでした。逆に言えば、それは人によって大きく変わる気がします。例えばイジメによって森田は大きく変わってしまったのだから、いじめというものは…というありきたりなものから、もっと深い所まで様々。これについてはみないと言わんとすることはわからないと思います。



ただ、ラストシーンだけは侮っていた。

これはずるい!




V6で言うと、演技担当は岡田くんでしょ!

なんて思っていた自分が恥ずかしい。

森田剛という才能を完全に知らなかった。



ついついこういう殺人鬼役って、自分が好きな人たちにやって欲しくなってしまう傾向が私にはあるのですが(ずっとKinKi Kidsにこういう役をやって欲しいと思ってた)、これはKinKi Kidsには絶対出来ない。



森田剛』でしか演じられない。



と強く思いました。

本当に素晴らしい演技だった。

ファンではない人も、見て後悔はしないと思う。



さて、ここまで支離滅裂に語ってきましたが、こうして感想を綴って見るとどうしてももう一回見たくなってきますね(笑)


近々、もう一回見てこようと思います(笑)



ヒメアノール、オススメです。




ジャニオタにもこんなに違いがあるものか。

初めまして。


ブログを書くことは初めてなので、何を書こうかなと考えていたところ、最近KinKi Kidsファン以外の友人と話した「好きなジャニーズアイドルをどうやって愛でていたいか」について、自分の中のメモ的にしたためておくことにしました



ジャニーズの熱狂的なファン、いわゆるジャニオタは世間からはひとくくりにされがちですが(もちろん私もそのうちの1人であるという自覚はあります。)やっぱりどのグループを応援してるかによって特色は強いですよね。


私の知人のジャニオタは、セクゾ、嵐、SMAP、WEST、キスマイが主流です。私以外にはKinKi Kidsファンがいません。つまり、他のグループと話していると色々と壁(この言い方は語弊があるかもしれませんが)があることに最近気づきました。

色々とその壁はあるのですが、今日は初ブログということで、短くまとめるためにも一つだけ、まさに一番の違うところだなというところを挙げたいと思います。




他のグループとの壁、それは…



『他のグループのファンはアイドルと同じ立場でありたい』


のに対して


『図書委員は第三者でありたい』


と言う点でした。



仲良く知人とオタトークをしていても、その根本が違うことで、話がどんどんずれていってしまうのです。

つまりどういうことかというと、

知人が自担の話をするときに「◯◯君はダンスも上手くなったし、最近では歌も上手になったの!本当に笑顔が素敵だし、あんな人と出会いたい!もう本当に大好き!結婚したい!」と話すのに対し、

KinKi Kidsファンは「光一さんと剛さんのハーモニーは綺麗なんだよ。剛さんは可愛らしいし、光一さんは王子様って言われているけれど、中身はおっさん。この2人の応援ができて幸せ。」

とまぁこんな感じで話すと言うことです。

(なかなか文章力がなく、伝わりにくいかもしれない)



では、なぜ同じジャニーズのアイドルを応援しているジャニオタなのにもかかわらず、このように変化が生まれてしまうのか?

ファンの人柄?確かにそれもあるかもしれません。ですが、逆に言えばKinKi Kidsにはそんな風に応援する人を惹きつけてしまうものがあるのです。



(ここから書く話は、あくまでも私の主観ですので、気分を害される方や他のグループファンの方は合わないなと思ったら読むのをやめてくださいね)




簡単に言ってしまえばそれは、KinKi Kidsの2人の中に生まれている必然的な運命でしょう。



・同じ堂本と言う名字

・1979/1/1生まれと1979/410生まれという、ぴったり100日生まれの関係

・なのに学年が違う

・同じ日にたまたまconcertを見て出会う


その他、たくさんの運命が2人の間にはありますよね。

まさしく、「運命」という言葉は2人のために生まれたんじゃないかと錯覚するくらいに笑

これこそが、図書委員を図書委員であるべき姿に変えた要因なのではないでしょうか。もちろん私も運命に結び付けられた2人だからこそこんなファンになった自覚があります笑

ファンになってもう幾分が経ちますが、ときどき当たり前のように感じる堂本と言う共通の名字の当たり前ではない事に感動して、胸を震わせたりしています。

堂本って、全国に五千人しかいないんですって。

剛さんも「親戚以外の堂本に出会ったことがない」って仰っていましたもんね。

それを知ったらますます運命ってすごいなと感じさせられます。


こういう運命があると、離れられません笑



確かにKinKi Kidsはかっこいい。

確かにKinKi Kidsは歌がうまい。

確かにファンのみんなはKinKi Kidsが好き。


でも、それは心の底から2人が2人で一緒にいるところを応援しているということなんです。



「好き!かっこいい!」

もちろん図書委員だって言いますとも!

でも、それよりもずっとKinKi Kidsの2人に対して抱いている感情というのは、「尊い」が一番近いかも知れませんね笑



さて、初めてのブログを書いてみて最初から最後まで支離滅裂な文章になってしまいましたが、改めてKinKi Kidsの運命について考え直してみると、KinKi Kidsへの想いが溢れてきてしまいますね。


もうすぐ夏。

光一さんが元日に仰っていた「KinKi Kidsの活動を増やしたい」という言葉。


剛さんが仰っていた「KinKi派になってください」という言葉。


私はそれを信じてまた元気に生活をしたいと思います。たまには夏のKinKi Kidsみたいもの!それまで、いい子で知られる図書委員がKinKi派として一丸になって、察するべき相手と戦っていきましょうね。



それではまた気が向いたら。